
※登場人物は全て仮名です。
田中祐介、38歳。都内IT企業に勤める平凡なサラリーマンである。晩酌はもっぱらコンビニで買う角ハイボール缶。たまの贅沢で居酒屋の知多ハイボールを頼むのが、ささやかな楽しみだった。
その日の昼休み、スマホでSNSをダラダラと眺めていた祐介の指が、ふと止まった。
「ふるさと納税で響ゲット。実質2,000円は神すぎる」
投稿主は大学時代の後輩、佐藤だ。添付された写真には、高級そうな箱に入った響のボトルが映っている。
祐介の脳内に疑問符が浮かぶ。ふるさと納税といえば、米や肉をもらうものではないのか。いや、確かに去年、佐藤が「ふるさと納税でウイスキーもらう」と言っていた気がする。あの時、祐介は何と返信したっけ。
過去のLINE履歴を遡る。
「えー、普通に買った方が早くね?笑」
祐介の顔が真っ赤になった。スマホを持つ手が震える。あの時の自分、完全に見当違いな発言をしていたのだ。
慌てて検索する。「ふるさと納税 ウイスキー」。
出るわ出るわ、大量のヒット。山崎、響、竹鶴といった有名銘柄から、厚岸、駒ヶ岳、嘉之助といった聞いたこともない地ウイスキーまで、ずらりと並んでいる。
祐介は震えた。この3年間、ふるさと納税で米10キロを3回ももらっていた自分。その一方で、酒屋で山崎12年を15,000円で買って、SNSに「大人の贅沢」と投稿していた自分。
完全に情弱ムーブだったのである。
その日の夜、祐介は居酒屋で同期の山田と飲んでいた。
「なあ山田、お前、ふるさと納税でウイスキーもらってる?」
山田はハイボールをぐいっと飲み干してから答えた。
「当然だろ。今年はもう駒ヶ岳の限定ボトル申し込んだぞ」
「限定?」
「そう、限定。ふるさと納税でしか手に入らないボトルとかあるんだよ。しかも、そういうのって後で価値上がるんだ」
祐介の目が輝いた。
「価値が上がる?」
「ああ。例えば3年前に寄付でもらった厚岸の限定ボトル、今メルカリで倍の値段ついてる。つまり、実質2,000円で手に入れたものが、3万円で売れるわけ」
祐介の脳内で電卓が回転し始めた。寄付額50,000円、自己負担2,000円。返礼品が現在価値30,000円。転売すれば28,000円の利益。いや、待て。そもそも寄付した分は税金控除されるから、実質的には…。
「おい田中、顔がニヤけてるぞ」
「いや、すまん。ちょっと感動してて」
山田は続けた。
「ただし、人気の限定品は争奪戦だからな。受付開始と同時にアクセス殺到して、5分で終わるとかザラ」
祐いえのスマホが震えた。先ほど登録したふるさと納税サイトからの通知だ。
「明日10時より、長濱蒸溜所シングルモルト限定300本、受付開始」
祐介は立ち上がった。
「山田、悪い。明日、午前中に重要な用事ができた」
「は?今決まったのか?」
「ああ。限定300本なんだ」
山田は祐介の肩を叩いた。
「そうか。お前も沼に落ちたか」
翌朝9時55分。祐介はパソコンの前に座り、右手にマウス、左手にスマホを握りしめていた。会議室に「体調不良のため午前半休」とメールを送ってある。
9時59分。ブラウザを3つ立ち上げ、全てふるさと納税サイトの該当ページにアクセスしている。
10時00分。
「受付開始しました」
クリック。個人情報入力。クリック。支払い方法選択。クリック。
「ただいま大変混み合っております」
祐介の額に汗が滲む。再読み込み。クリック。またエラー。再読み込み。クリック。
10時03分。
「申し込みを受け付けました」
祐介は両手を突き上げた。やった。限定300本のうちの1本を、自分が手に入れたのだ。
その瞬間、祐介の脳裏に悪魔がささやいた。
「これ、メルカリで売ったら儲かるんじゃね?」
いやいや、と祐介は首を振った。自分は転売ヤーではない。純粋にウイスキーを楽しみたいだけだ。そう、あくまで愛好家なのだ。
翌週、祐介の元に長濱蒸溜所のボトルが届いた。専用の化粧箱に入った、美しい琥珀色の液体。
祐介は震える手でボトルを持ち上げた。そして、そっと棚に飾った。
「開けるのもったいないな…」
その日の夜、祐介は角ハイボール缶を飲みながら、棚に飾られたボトルを眺めていた。
それから1ヶ月。祐介の部屋には、未開封のウイスキーボトルが12本並んでいた。
厚岸の二十四節気シリーズ4本。駒ヶ岳の限定ボトル2本。嘉之助のシングルカスク3本。マルス信州のモルテージュ2本。そして先日届いた、静岡ガイアフロウの限定ボトル1本。
全て、ふるさと納税で手に入れたものだ。
祐介の晩酌は、相変わらず角ハイボール缶である。
「開けたら価値が下がるからな…」と祐介は自分に言い聞かせた。
その日、佐藤から久しぶりにLINEが来た。
「田中先輩、今度新しくできたウイスキーバー行きませんか?厚岸の二十四節気、全種類置いてあるらしいですよ」
祐介は返信した。
「おお、いいな。実は俺も厚岸持ってるんだよ、ふるさと納税で」
「マジですか!じゃあ持ち寄りで飲み比べしましょうよ」
祐介の指が止まった。持っていく?開封する?
5分後、返信が来た。
「先輩?」
祐介は深呼吸をして、キーボードを叩いた。
「悪い。やっぱり俺の分は飾っておきたいんだ」
「???」
「飲むのは、バーで頼むわ。ははは」
祐介はスマホを置き、部屋の棚を見つめた。12本の未開封ボトル。それぞれに思い出がある。争奪戦を勝ち抜いた興奮。届いた時の感動。そして、開けずに飾る喜び。
「これ、もはやウイスキー愛好家じゃなくて、コレクターだな…」
祐介は自嘲気味に笑った。そして、ふるさと納税サイトを開く。来月は秩父蒸溜所の限定ボトルが出るらしい。
角ハイボール缶をぐいっと飲み干し、祐介は決意を新たにした。
「よし、来月も頑張るか」
部屋の棚には、13本目のスペースが空いている。祐介の戦いは、まだ始まったばかりだった。
3ヶ月後。祐介の部屋には27本のボトルが並んでいた。
妻が実家から帰ってくるまで、あと2週間。
「さすがにこれ、どう説明すればいいんだ…」
祐介は頭を抱えた。
だが、来週は響の限定ボトルが出る。
祐介の指は、すでにスマホのふるさと納税アプリを開いていた。
その時、画面に別の通知が表示された。
「確定申告の準備はお済みですか?」
祐介はハッとして、慌てて「ふるさと納税 転売 税金」と検索した。
検索結果の最初に表示された記事のタイトルが、祐介の目に飛び込んでくる。
『返礼品の転売は一時所得の対象。年間50万円超えたら課税されます』
祐介の顔が青ざめた。
「え、マジで?」
さらに記事を読み進める。
『継続的に転売している場合は雑所得として扱われ、50万円以下でも申告が必要なケースも』
祐介は震える手で電卓アプリを開いた。もし27本全部を今のプレミア価格で売ったら…総額80万円超え。
「あぶねぇ…」
祐介はそっとスマホを置き、部屋の棚を見つめた。美しく並んだ27本のボトル。これらは売るためではない。飾るため…いや、いつか飲むためのものだ。たぶん。
「そうだ、俺はコレクターだ。転売ヤーじゃない」
自分に言い聞かせながら、祐介は来週の響の申し込みページをブックマークした。
飲むかどうかは別として。